
平成21年1月22日(木)・28日(水)
小学校英語教育の取り組み視察
平成23年度小学校に英語全面導入を控え、考えること、感じたこと
1.所沢市立若狭小学校視察 1月22日(木)
所沢市は若狭小学校に伺った。
今日の実践は…
1, 中学校の先生が小学校に降りて(Jプラン)小学校の担任と組んで授業を行う
2, 国の求める「場面シラバス」に拘束されず、どんな小学校担任でも実践できる教育方法を作る
3, 小学校でも「定着」させるためにそれなりに繰り返しも行う
…という、国に対するアンチテーゼとしての意味もある授業であった。
○国は小学校英語導入に行き着くまでの過程で、「とにかく英語嫌いにさせない→繰り返しや定着を求めない」「場面指導がよいだろう」「担任が基本だが、AETとうまく組んでほしい」というような方針を打ち出した。しかし、一方では、週一時間の授業だけで場面指導をして、さらに繰り返しをしなければ一体何が残るのか?! 中学校では文法シラバスで教えるのに、小学校では場面シラバスのみでやって、とまどいだけが残るのではないか?! どんな担任でもこうやれば教えられるという一種の法則化をしなければいけないのではないか、という意見もあるわけだ。当日の授業は5年6年と約2年間教えてきた55時間目の授業。2年間の留意点は
(1)英語の発音を定着させるための繰りかえし指導
(2)文字、英単語を使って効率的に授業展開する指導
(3)コミュニケーションを通して会話文を定着させる体験指導
だったという。
ところで、この公開授業とそのあとの研究会を通して、自分は教育界の性(さが)を思い出した。もちろん、今日の授業はそのアンチテーゼとしてあるのだが。つまり、国と教育界の関係で思うのは、国が方針を出すとそれに沿ってお先棒担ぎをすることが先進的、と見られる点である。(経済評論家もそうだけどね。) 生きる力、という言葉を国が使えば、次の日から、どこの指導主事もそれを使い始める。指導ではなく支援だ、と国が言えば次の日から「指導したらまずい。子どもに寄り添って手をかすにとどまるのが本当の教育」と指導者たちが言い始める。教育長も必ずそれに絡めた議会答弁に変わる。県も市も教育関係の指導者たちが、まるで江戸期の宣教師のような役目を果たす。そうやって出世していく構図があるということだ。しかし、授業の後で、指導講評の金谷教授が奇しくもこういわれた。「国が、『小学英語は体験的にせよ』といったからといって、それは場面シラバスでなくてはダメ、とか、椅子に座って書いたり繰り返したりする手法はダメ、といっているのではないんですよ。『旧来の手法にとどまって座学に堕すな』という意味にとらえれば良いんです」。
「指導要領はdon'tで書けないところが苦しいのです。本来は『こういうのではダメだ。それ以外ならどうぞ工夫しておやりなさい。』 と書ければ良いし、そうとらえればよいのです。」と。言い得て妙だと思ったのであった。その他、感じたこと、記録したこと羅列すれば…
●場面シラバスでやるにしても1回だけでは定着しない。小学校の先生も、「預けられてできるのだろうか?」という意味で不安なはず、だから場面シラバスを採用していない。(小林)
●小学校の先生方は、「評価はどうするのか!?」としきりに気にされていた。自分が教師を辞めたあと、主張され始めた「指導と評価の一体化」と言うことなんだろう。特区で英語を先行している船橋市は「ことば」で評価を与えているとか。小林先生は子どもも自己評価できる評価項目で到達度評価の項目を10段階で作り、与えている。
●特区で成田市もやっているが、AETが週3回常勤し、場面シラバスでも積み重ねでき、定着できるとのこと。但し文字指導はしていない。
●若狭小の場合、小3から小6まで週1時間総合の時間に英語活動を行ってきた。まずは、中学から来た小林先生による授業を見てもらい、少しずつ担任に譲っていく。但し、引いている担任には押しつけない。授業の流れをパターン化することで担任にもわかってもらえることを目指している。
●コミュニケーション能力をつけることはもちろん目的の一つだ。そこで、何人声をかけたか、という点。さらに誰に声をかけたか、という点も、あとで挙手させて教師が聞くことで評価している。そのほうが高学年になったときでも男女間でもコミュニケーションする言い訳になるから。また、おとなしい子にも勇気づけになるから。
●BGMをかけるとのりが良くなる。昔、高校野球の練習にBGMをかけるのがはやったが、その発想だ。効果音も取り入れて、子どもを手を替え品を換え引きつける工夫がされていた。その他の工夫としては、小道具、帽子、カツラをかぶらせてコミュニケーションさせていた。これも変身により大胆になる効果をねらったもの。直輸入のシールも評価に使って動機付けを強化していた。
●Jプランの教師としては、「中学に子ども達を受け継ぐにあたってここができればスムースだな。」と思われる段階を想念し、それに向けて小学校の授業を組み立てた、とのこと。さらに授業のやり方等を電子化、データ化して残すつもり。発音などはAETの協力の下CDに残していくらしい。(小林)
●小学校の先生は自分が学生だった頃の中学校の授業しか知らない。今の中学の授業は昔とは違うのに。一方、今の中学校の先生も、今の小学校でどんな英語教育を与えているか、やはり知らない。双方がお互いを見て、知って、その上でおのおのの授業を作っていく必要は大きいものだ、との指摘があり、自分もまさにそうだと感じた。
●週1時間ではholisticな(story telling?)ことは難しい。限界もある。との意見に対し、whole languageは子ども達の印象に強く残っており、そんなことはない、と言った意見が出た。自分では、それでやるべきだ!とメモしてあるのだが、今となっては、意味がわからない。スミマセン。
2.所沢市立和田小学校視察 1月28日(水)
衝撃をまた受けた。指導計画などの資料が手元にないまま思い出したことを元に書くので正確さを欠くと思うが、記憶を頼りに、書きます。
和田小学校の発表は西部地区の小学校の英語研究の第4回発表会として行われた。各小学校に1人「中核教師」と名付けられた英語導入に当たっての中心教師がいるのだが、その先生方が来られていたので、5年生の授業に40人くらいの先生が来られていた。みな、自分の学校に英語をどう導入するかで責任持たされた人なので、真剣そのものであった。
Can you do this? Yes, I do. (No,I don`t.)
という場面を、テニス(playTennis)だったり口笛(whistle)だったり換えて、AETとクラス担任が児童と掛け合ったり、それをビンゴゲーム形式で行ったり、児童が自慢できること、ものを用意してきて、それを「Can you do this? 」と問い掛け合いながらグループ内の友達に自慢するという形式で授業は進んだ。子どもたちは5年生なのに、とても素直な反応でノリノリで、トランプや三点倒立など用意してきた自慢をしながらコミュニケートしあっていた。小学校英語は、小学生の適応力を武器に英語を好きになればよし。また、英語を受け入れ、コミュニケーションすることが好きになればよい、と国はいう。今日の授業は担任の先生と子どもの信頼関係、AETの先生の良さ、によって十分それらが達成されていた。また、和田小は、別に研究委嘱を受けたのではなく「これから必要だから」と先生方が自発的に取り組んできたのだという。全職員の態勢にそれが十分感じられ、これも圧倒された。「一体どうしたらこんなにやる気になるのだろうか? 小学校の先生方は英語導入なんて迷惑なんではないのか?!」 授業後の全体会の雰囲気もさらに自分を圧倒した。
みんな英語を「やる気」で「真剣」なのである。自分が抱いた率直な感想を挙げたい。なお、まず若狭小の全先生、集まった先生方の前向きな姿勢と尽力に敬意を表したい。その上で敢えて、危惧したことも混ぜて申し上げたい。
◆英語に対する全職員のやる気、一致協力職員態勢がすごい。どうしたらそうなるのか。
◆英語でこれだけできるなら、国語でも社会でも子どもに高望みすれば、できるのではないか。教師の態勢いかんで、どの分野でも英才教育ができる。自分なら古典でやってみたい。いや、逆に既存の分野でなぜそれをしなかったか?という問われも生じてしまいそうだ。
◆小学校の先生方は、まじめに英語をこの和田小学校のレベルにまで高めねばならないと感じている。しかし、中学校の教員はそうは感じていないだろう。求めるものに齟齬が生じそうだ。間隙をついて塾の進出が危ぶまれる。
◆・小学校の先生からすると、高学年は「素直さが少なくなっている学年=適応力を失いかけている→低学年から英語を導入しないと満足いくコミュニケーション力はつけてやれない」となってしまうのだ、と知った。中学校の教員からすれば、高学年だって何の何の、なんて素直なんだろう! とただただ感動ものなんだが。
英語をになう小学校の中核教師の先生方は真剣に、
◆担任によって温度差があること、市町村によっても温度差があること、を嘆き、危惧している。
◆あくまで担任が中心で、共通化された手法で行うべきことを自覚している。
◆AETとの連携が取れないことを心配している。
◆そして、コミュニケーション力をつけてやるためには高学年からの導入では間に合わず、生活の時間と総合学習の時間を使って準備すべきだが、学習指導要領では5年生からの導入であり、その前の時間の確保、小学校間の扱う時間の差の出現を心配しているようである。
その昔、総合的な学習の時間の一つとして「国際理解」もあった。地域に住む外国籍市民、の理解で十分だったはずだ。しかし、今後、英語の導入決定によって、一気に英語を話す人とのコミュニケーションに狭められ、結局英語科としての英才(初期)教育を求めてしまうのではないか、と自分は危惧する。塾も保護者もそこに突き進む。中学校にはいるまでの助走期間をじっくり取れ英語好きが増えるというのではなく、英語を習うスタート時期が早まったというだけでレベルの高い英語を求め、結局、英語嫌いも早めに現れる、ということにならないようにしなければならない。また、日本人はまた、英語を話す国々に対し、奴隷根性を増してしまうのではないか。(麻生さんに対する性急で容赦なき批判と、オバマ大統領に対する扱いの差でも抜けきれないな、自分は感じた) 具体的には、中核教師の心配されることに加えて、小学校中核教師と中学校英語科教師の授業参観と交流、意思疎通と認識の共通化をさせねばなるまい、と自分は感じた。
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